「遊女三千」といわれた吉原。華やかな衣装に身をつつんだ遊女たちの生涯は苦難の連続でした。労働環境、借金、避妊、梅毒など。華やかな身なりでキラキラしていますが、遊女のほとんどは借金のカタなどとして妓楼に売られた女性。平たくいえば人身売買です。表向きは幕府も人身売買を禁じていたため、「遊女は妓楼で働く奉公人」ということになっていましたが、それはあくまで建前。

実際には、女衒(ぜげん)と呼ばれる“人買い”に親や親類、時には夫が娘や妻を売り渡していました。江戸市中の場合は女衒を使わず直接、妓楼に親らが娘を売ることもありました。女衒が仕入れてきた幼女たちはすぐに客をとらされることはなく、まず「禿」としてスタートしました。読み方は「はげ」ではありません、「かむろ」です。

禿はだいたい15歳くらいまでの少女で、先輩である花魁の身の回りのお世話や雑用をしながら、吉原や妓楼のしきたりを学び、“未来の遊女”としてしつけられました。また、遊女の必須教養として読み書きなども教わりました。

禿も16歳くらいになると次のステップに移ります。見習い遊女の「新造(しんぞう)」です。新造になったらすぐにお客をとるわけではなく、花魁について身の回りの世話をしながらお客のあしらい方など“遊女のテクニック”を学びました。お客をとる前の新造は特に「振袖新造」といいます。

新造はお客をとる前、ある儀式を行わねばなりませんでした。それは、初体験、つまり処女の喪失です。これは「水揚げ(みずあげ)」と呼ばれるもので、禿から妓楼にいる少女や、未婚の女性など処女に対して行われました。相手をするのは、妓楼が依頼したその道に長けた40歳ぐらいの金持ちの男性だったそう。乱暴だったり下手だったりして、性行為に対する恐怖心や嫌悪感を抱かせないよう人選には気を遣ったようです。




ひとくちに遊女といっても、「花魁」と呼ばれるトップクラスの遊女を頂点にした厳然たるヒエラルキーがあり、待遇も雲泥の差がありました。たとえば、部屋をとっても、花魁は豪華な個室を与えられましたが、禿や新造といった見習い・下級遊女は大部屋に雑魚寝でした。

それだけでなく、新造はお客を接客するのも「廻し部屋(まわしべや)」と呼ばれる共用の大部屋で、屏風1枚で仕切られただけの寝床で性行為を行いました。食事に関しても、売れっ子遊女となってお客がたくさんつけば、豪華な出前を注文することもできましたが、妓楼で出される食事はかなり質素。

とにかくこうした恵まれない待遇から脱したければ出世するしかありませんでした。そのため、遊女たちは芸を磨き、お客を悦ばせるためのテクニックを磨きました。お客と性行為するのは午前2時頃で、朝6時頃にお客を送り出し、2度寝ののち10時頃に起きて、昼頃には昼の営業が始まり、その後はずっと宴席にはべったり、お客の相手をしました。

そのため多くの遊女は万年寝不足ぎみだったとか。ひと晩に相手をする客もひとりとは限らず、複数の男性と性行為することもあったといいますから、本当に肉体的にも精神的にもたいへんだったことでしょう。正式な休みも正月と盆の年2日だけで、生理の時もまともに休ませてもらえなかったとか。さらに、脱走防止のため吉原からの外出は禁止されており、まさに遊女たちは“カゴのなかの鳥”でした。

また、自身が売られた時の代金は自分の借金となっていただけでなく、自分の着物や髪飾り、化粧代なども自腹、さらに花魁の場合は、付き人である禿や振袖新造の着物代なども自腹で支払わなければならなかったので、借金はまったく減りませんでした。働いても働いても楽にならずです。とはいえ、正月には餅つきをするなど季節のイベントもありましたし、貧農の娘のままなら一生着ることのできない豪華な着物や髪飾りをつけることもできたうえ、茶道や和歌など諸芸を学ぶこともできました。

江戸時代の高級娼婦「花魁」には誰でもなれたわけではありません。子供の頃から廓内で姐さん方に従事し、きちんとした教育を受け、花魁としての「美貌」「教養」「芸事」「書」等がきちんと出来なければなれなかったのです。